海軍の戦闘機には高い能力を求められ、日本は優秀だった。
2017/09/12
日本海軍の戦闘機は,大きく艦上戦闘機と局地戦闘機に分けられていました。全体的に空戦性能を第一に設計され防御は二の次とされていました。 これが、戦争が長引くに連れ優秀なパイロットを多く失う結果を招いたと言われています。
今回は、海軍の戦闘機と日本の軍事力についてまとめてみました。
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海軍と陸軍に戦闘機|日本の軍隊
陸軍海軍空軍の違いがよく分かりません
引用元-陸軍海軍空軍の違いがよく分かりません – うちの大叔父は陸軍で比島沖で亡くなり… – Yahoo!知恵袋
陸軍は「陸を主戦場として戦う軍隊」です。陸で戦えば戦車などが多く用いられるようになる、ということ。これはそのまま海軍空軍にも当てはまります。海軍なら海を主戦場とした結果、船を使うのが大前提。だけど大昔なら船から船に乗り移って鉄砲で戦うことも。つまり武器で単純に軍隊を区別することはできないのです。
ただし、空軍は大日本帝国にはありませんでした。同時期のアメリカも同様で、海軍と陸軍がそれぞれ航空隊を持っていたのです。そして陸を(海を)主戦場とした時、戦車や船だけではなく空から攻撃する飛行機も役立つことがわかりました。だからそれぞれに航空隊を整備したのです。
戦後になって、アメリカでは空だけの軍隊=空を主戦場とする軍隊が空軍として独立したわけです。
引用元-陸軍海軍空軍の違いがよく分かりません – うちの大叔父は陸軍で比島沖で亡くなり… – Yahoo!知恵袋
海軍は真珠湾攻撃で日本の強さを見せていた
「真珠湾に並んでいた米主力艦が何故、あのように、脆くも沈んだのか。それは日本の海軍機の爆弾が戦艦の主砲弾を改造して爆弾につくり変えていたからである。強力な装甲板を突き破る目的でつくられた戦艦の口径、三十六センチもしくは四十センチ砲弾を改造した、硬い弾頭をもった爆弾が急降下攻撃によって、絶対貫けないと思われていた米戦艦の装甲甲板をつき抜いたのである。ドイツ空軍も考えなかったアイデアであった。
日本は魚雷にも新しいアイデアをこらしていた。雷撃機から投下した魚雷が、深く沈まないように、翼のようなものを魚雷につけていたのである。しかも魚雷の威力は、ドイツが『涎』を流して欲しがり、ドイツ自慢のUボートとの交換を申し入れてきたほどのもので、米英海軍の魚雷とはケタ違いであった。それゆえ、戦艦の舷側に張られている、幾層もの強力無比な防御壁を一撃で粉砕し、あたりどころがよければ、一発で戦艦が二つに折れるほどの威力であった。
大日本帝国海軍の戦闘機
海軍は陸軍ほどに仕様書を出さなかったものの、その要求の過酷さは陸軍をも上回るものであり、また開発内容も時によって次々に変更された。そのような海軍の要求に応えて製作された『零式艦上戦闘機(零戦)』は、世界で最も有名な日本製の航空機であるといえる。
引用元-Wikipedia
海軍の戦闘機 零戦の強さはどれ位?
大平洋戦争初期の零戦隊の活躍は有名ですが、これは零戦の性能が米軍機のそれを凌駕していた事が勝因ですか、それとも搭乗員の練度が優れていたのでしょうか。
特に練度ですが、ミッドウエイで優秀な搭乗員を失って〜などの記述が多いのですが、実際に米軍よりも優れていたのでしょうか。当時の自動車運転者の数の比較からも想像できますが、米国の方がはるかに運転、と言うものに慣れがあるように思えてなりません。日本の方が米国よりも技量が高かったというイメージには根拠があるのでしょうか。
引用元-A2001903.html
要するに、対する連合軍戦闘機に数で優っていたため、だと思います。
ミッドウェーでは、飛行機はなくなりましたが搭乗員はそれほど失っていません。
マリアナ沖海戦でも真珠湾帰りの搭乗員がかなりいます。
また、開戦時の搭乗員の練度は、決して熟練揃いとは言えません。
機動部隊の搭乗員の質がピークに達していたのは、だいたいですがインド洋作戦から南太平洋海戦までの間だと思います。
その間でも、熟練搭乗員の比率は、イメージされているよりも小さいと思います。連合軍の搭乗員の質も似たりよったりですし、連合軍の戦闘機もひどく低性能というわけでもありません。
個々の空戦はともかく、「戦況」としては、つまるところ、戦場上空にいられる機数で勝敗が決まる部分が大きいと言えます。引用元-A2001903.html
零戦が性能的に相対する連合軍戦闘機を上回っていた、というのは確かだと思いますが、それにしても決定的、一方的といえるほどの差ではありません。
結局、大戦初期は連合軍側が準備不足で対応が後手に回ったこと、それに伴って、十分な数の戦闘機を十分な期間にわたって展開することができなかったこと、が零戦の活躍を可能にしたといえるでしょう。
それには、零戦の空戦性能よりも、航続性能の方がより大きい役割を果たしていたといえるでしょうし、零戦の価値というのは、空中戦で無類に強いというよりも、そうした作戦展開を可能にした、というところにこそあるのだと思います。
引用元-A2001903.html
海軍の零戦は強かった|今も日本で語り継がれている
多くの方々に取材して、筆者が確信したのは、日本軍の航空部隊は本当に強かったということだ。
大東亜戦争の序盤で、日本軍が快進撃を続けたのは、航空戦力が圧倒的で制空権を支配できたからで、中盤に劣勢に陥ったのち、終盤になって登場した陸軍の「五式戦闘機」や海軍の「紫電改」は、総合的な戦闘能力で米軍機にひけをとらなかったし、パイロットの練度も相変わらず高かった。
圧倒的な物量の差で、多勢に無勢の戦いを強いられ、消耗し、最後は数でねじ伏せられたが、どれほど不利な状況下にあっても、日本の航空部隊は、米軍に確かな傷跡を残し続けたのである。
戦後、アメリカが日本の重工業を解体し、終戦から昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効されるまでの7年間、航空機の製造を禁止し続けたのは、それほど日本の航空技術とパイロットを恐れたことの証左である。
筆者は、現代のアメリカ海軍の空母艦載機に乗るパイロットにインタビューしたことがある。何の気なしに、「あなた方が戦うのが嫌だと思う戦闘機は何か?」と聞いたら、「零戦だ」と答えたので驚いた。筆者が日本人なので、リップサービスの意味があったのかもしれないが、「1対1の格闘戦に抜群に強いから」とその理由まで口にしたのである。
現代の若いパイロットが「零戦」の名を出すということは、少なくとも、米軍の航空部隊のなかで日本の「零戦」の恐ろしさが、先輩パイロットから代々語り継がれてきたということだ。
引用元-現役米海軍パイロット 戦うのが一番嫌なのは「零戦」と即答│NEWSポストセブン
海軍の戦闘機|局地戦闘機
局地戦闘機は陸上基地での使用され,基地の防衛に当たることからその名を付けられました. 戦争後期になると本土防衛のために多くの機種が設計されました.
局地戦闘機・雷電
エンジンの馬力を得るために爆撃機用のエンジンを搭載したので胴体が太い. 故障が多かったが戦争後期には B29 撃墜に活躍.
21型の性能● 速力:587 km/h
● 主要兵装:20mm機銃4丁
● 生産数:各型合計470機局地戦闘機・紫電
水上戦闘機であった強風を陸上戦闘機に改造. 中翼構造で脚が長いので離着陸が不安定で故障も多かった.● 速力:583 km/h
● 主要兵装:20mm機銃4丁(うち2丁は翼下のポッド)
● 生産数:1007機局地戦闘機・紫電改 (紫電21型)
紫電を改良した機体だが別の戦闘機と考えたほうがよい. 戦争後期の傑作戦闘機であった.● 速力:594 km/h
● 主要兵装:20mm機銃4丁
● 生産数:約400機十七試局地戦闘機・閃電
プロペラを双胴のまん中に配置して,機種に武装を集中しプロペラ効率の向上を図るという計画. だが,実用性が問題とされ計画中止.● 速力:759 km/h
十八試局地戦闘機・震電
先尾翼という形式を採用することで,高速重武装を狙った野心作. 完成すれば B29 の撃墜に絶大な効果を発揮したと考えられる. 最終的にはジェット化も考えられていたという.● 速力:750 km/h
● 主要兵装:30mm機銃4丁
● 生産数:試作1機十八試甲戦闘機・陣風
高々度飛行を可能にするために過給器を装備した迎撃戦闘機として計画された. だが,過給器付きのエンジンの開発がうまくいかなかった.● 速力:685 km/h
十八試乙戦闘機・天雷
排気タービンの開発の遅れを補うために双発の局地戦闘機として計画された. しかし,性能が振るわず機種統合により開発中止.● 速力:596 km/h
● 主要兵装:30mm機銃2丁,20mm機銃2丁
● 生産数:試作6機局地戦闘機・秋水
ドイツのMe163を参考に作られたロケット戦闘機. 上昇能力は素晴らしいが,エンジンは6分しか持たないので,攻撃の機会は1度きりで実用性は無かった.● 速力:900 km/h
● 主要兵装:30mm機銃2丁
● 生産数:試作1機
引用元-Japanese Naval Fighters
まとめ
日本海軍の航空機の特徴は航続距離の長いことにありました。これは海の上を飛行する必要性からいって当然のものといえました。 しかし、そのために機体を軽く作り燃料の搭載量を増やしたために防御力のない機体を多く産み出し、戦争後半のパイロットの不足という結果を招くことになったのだそうです。
twitterの反応
https://twitter.com/ki_84_bot/status/672272949030862849
結局ステージ7でゲームオーバー。高度を下げてこちらの攻撃を回避、こっちも戦闘機なのに神風特攻、画面外に消える時に最後っ屁の弾を撃ってくるなど、日本海軍の艦載機が如何に強いかを肌で感じ取れるSTGであった。山口多聞がいなければもっとヌルゲーになってたに違いない。
— キリィ提督 (@okazakikilly) November 28, 2015
僕の旧日本軍の戦闘機の知識は大きく大日本帝国海軍開発に偏っている
— Kien Y. Knot (@0_u0) November 22, 2015
宮野善治郎(大日本帝国海軍/16機撃墜)
日本海軍航空隊における4機編隊戦法の導入や爆装戦闘機の実用化などに携わった功労者。卓越した指揮能力の持ち主で、空中指揮官として南方戦域を駆け巡る。しかし1943年6月16日、ルンガ沖上空における艦爆隊護衛任務中に発生した空戦で未帰還となる— WWⅡエースパイロットbot (@aces_dogfight) November 22, 2015
【屠龍丁型】当初はなかなか活躍できなかった屠龍だが、日本本土への夜間空襲が懸念されるようになると状況は一変した。陸軍にも夜間戦闘機が必要となり、屠龍は海軍の月光を参考に改造された。それが丁型である。しかしレーダー技術が低かった日本では有効的な迎撃ができなかった。
— 聯合艦隊司令長官 (@ymt_mss_snn) November 21, 2015
https://twitter.com/ki_84_bot/status/672272949030862849
結局ステージ7でゲームオーバー。高度を下げてこちらの攻撃を回避、こっちも戦闘機なのに神風特攻、画面外に消える時に最後っ屁の弾を撃ってくるなど、日本海軍の艦載機が如何に強いかを肌で感じ取れるSTGであった。山口多聞がいなければもっとヌルゲーになってたに違いない。
— キリィ提督 (@okazakikilly) November 28, 2015
宮野善治郎(大日本帝国海軍/16機撃墜)
日本海軍航空隊における4機編隊戦法の導入や爆装戦闘機の実用化などに携わった功労者。卓越した指揮能力の持ち主で、空中指揮官として南方戦域を駆け巡る。しかし1943年6月16日、ルンガ沖上空における艦爆隊護衛任務中に発生した空戦で未帰還となる— WWⅡエースパイロットbot (@aces_dogfight) November 22, 2015
【屠龍丁型】当初はなかなか活躍できなかった屠龍だが、日本本土への夜間空襲が懸念されるようになると状況は一変した。陸軍にも夜間戦闘機が必要となり、屠龍は海軍の月光を参考に改造された。それが丁型である。しかしレーダー技術が低かった日本では有効的な迎撃ができなかった。
— 聯合艦隊司令長官 (@ymt_mss_snn) November 21, 2015
日本で戦闘機不要論といいますと、源田実大佐が支持したものが有名です。だいたい1933-1936年頃の日本の海軍航空機は爆撃機の方が戦闘機より速く、結果、「戦闘機など不要、高速の爆撃機で敵機を振り切ればよい」という意見が生まれました。まぁ、零戦という高速戦闘機の登場で消えましたが。
— 戦史研究室勤務の霧島bot (@milikiribot) November 21, 2015